入局以来、7巡目になる春先のことである。
今年で16になる無限書庫の若き司書長ユーノ・スクライアは、その日の業務を終えて本局居住区にある自室へ帰る途中であった。
書庫で働き始めたばかりの頃は、長年放置されてきたそれこそ無限ともいえる書物の整理作業や、主にクロノ・ハラオウン執務官が持ち込んでくる資料検索の依頼に忙殺されていたが、ここ半年ほどになってある程度の余裕が作れるようになり、今日のように定時で帰れることも多くなってきた。
寝食を惜しんで勤しんだ整理作業、新たに配属されてくる司書を可及的速やかに戦力とするべく作り上げた各種マニュアル、より効率的な検索を可能とし、誰にでも扱いやすくするために一から構築し直した検索・読書魔法。無限書庫の業務は7年前とは比べ物にならないほどに効率化され、局の内外を問わず、そこに眠る無限の知は重用されるようになってきた。この数年の苦労がようやく報われ始めているのだ。それに、ユーノが個人的に行っている考古学者としての活動にも、それなりの時間を割けるようになってきた。今日もこれから、軽い夕食を取ってから書き途中の論文を仕上げる予定だった。
頭の中で論文の内容を纏めている内に、自室まで辿り着いていた。ユーノの部屋は通路の一番隅っこにある。ひたすら同じ形の扉が並んでいるだけの長い居住区の通路の中で、場所を忘れることがないのが利点だった。懐からカードキーを取り出して部屋に入ろうとしたところで、隣室から大きな物音が聞こえてきた。間髪入れずに、女性のものと思われる悲鳴。
「隣は空き部屋じゃなかったかな……?」
たしか、“出る”と噂でひたすら不人気の部屋である。若くして殉職した優秀な武装隊員の霊が云々。まったく別パターンの話もある。無限書庫で遭難して死んだ若い学者がどうとか。その隣の部屋で平然と日々を過ごすユーノもユーノだが、古代の遺跡のほうがよっぽどそのテの話は多いので耐性があった。
ただ、今の物音と悲鳴はどうやらオカルトの類ではないらしかった。大方、恐いもの見たさの物好きか、噂を知らない哀れな仔羊かが転居してきたのだろう。引っ越しの最中に荷物が崩れでもしたのかもしれない。放っておいてもよかったが、荷物の山に埋もれて天に召され、新たな噂話の種になられても寝覚めが悪い。どうせお隣なら挨拶もしないといけないし、とユーノはドア横のインターホンにあるチャイムのボタンを押した。
やや遅れて、たすけてー、とくぐもった声が返ってきた。当然、扉が開く気配はない。これは本格的に生き埋めになっている可能性が出てきた。とはいえ鍵がかかっていたら中には入れない。管理室まで行って事情を説明し、合鍵を借りて戻ってくれば済む話だったが、それはどうにも面倒だった。面倒なんて思考が出てくる時点でユーノには明らかに緊張感が欠けていたが、というのも、さっき聴こえてきた声に聞き覚えがあったからである。
(いや、まさかなぁ……)
声の主が予想通りの人物だとしたら……ただ、そんなに都合の良いことが果たしてあるのだろうかというと疑問ではある。
あれこれ考えている内に、扉の向こうから「たーすーけーてー」と情けのない声が聞こえてきた。
「おっと、いけない」
早く管理室へ、と振り向きざま、偶然ユーノの手がドア横の開閉スイッチに触れた。シャッ、と小気味の良い音とともに、扉が開く。部屋の主は、鍵を閉めていなかったらしい。
「不用心だなぁ……えーと、お邪魔しまーす……?」
恐る恐る部屋に入ると、最初に目に付いたのは、玄関口にきっちりと揃えて置かれている女物のスニーカーだった。一部の世界、一部の国では、家に入る時は玄関で靴を脱ぐという風習があるので、恐らくはそれだろう。ユーノ自身、その風習には地味に馴染みがあった。
「いやぁ、まさか、ね……」
さらに進んでいく。当然と言えば当然だが、中の構造自体はユーノの部屋と然して変わらない。トイレとバスルームを通り過ぎて、リビングへ。けっこうな数の段ボール箱が積み重ねられているところから、やはり引っ越し作業中のようだった。ただ、それらが崩れた様子はない。となると、問題の物音と悲鳴は――
「たすー……けてー……」
寝室のほうからだ。その声は部屋の外で聞いた時よりもずっとはっきりと聴こえてきた。やっぱり聞き覚えがあるというか、むしろずっと聞いていたいと思うような、兎にも角にも、ユーノは寝室へと向かった。
惨状であった。散乱する段ボール箱。おそらくはその中身であったのだろう衣類が、まさに海のように広がり、まさに山のように積み重なっている。時折海に波が立ち、山が揺れ動くのは、その下に人が埋まっている証左だった。ユーノは海へと足を踏み入れ、山を掘り返していく。当然のように全部女物なので、時折際どいものを発見しては気まずい思いをした。それにしてもまあ、ずいぶんと量がある。女性というのはみんなこうなのだろうか。
やがて人の形が見えてきた。やはり女性、否、少女と言ったほうがいいか。少なくともユーノよりは小柄である。もうちょっと衣類をどかしていくと、栗色の長い髪が姿を見せた。そこまでいくと、生き埋めになっていた少女も自力で身を起こせるまでになっていた。
「う、うう……助けていただいてありがとうございます……って、あれ?」
起き上がって、こちらを見上げて、感謝の言葉を述べたその少女は、喜ぶべきか否か、やはりユーノが予想した通り。
「ユーノくん、こんなところで何やってるの?」
高町なのは、その人であった。
ろくに荷物も片付いていないなのはの部屋では落ち着いて話もできないということで、場所はユーノの部屋に移された。
「なぁんだ、お隣さんってユーノくんだったんだぁ」
なのはが驚いたように言う。ユーノも驚いた。中学卒業を機に本局の寮に移るという話は聞いていたが、まさか隣とは。
備え付けのソファに腰掛けているなのはは、ユーノが持ってきたマグカップを両手で包み込むようにして持って、口元へと運ぶ。中身は砂糖とミルク多め、たぶんなのはの好みに合っていると思われる程度の甘さのコーヒーだった。
「あ、おいしー。これなら喫茶店が開けるよ、ユーノくん」
喫茶店の娘がそんなことを言った。とりあえず口には合っていたようで、ユーノはほっと一息つく。そのまま、なのはの向かい側に座った。
「ま、インスタントなんだけどね」
「……あー、ほら、隠し味が入ってるから、うん。だから美味しいんだよ」
「入れたかな、そんなもの」
「入ってないの? 愛情とか」
「…………」
「そ、そんな生温かい目で見ないでよぅ……冗談だってば、冗談」
そんな感じでじゃれ合うように言葉を交わした後、なのははテーブルの上にマグカップを戻した。中身は半分くらい減っていた。
なのはの出で立ちは、ユーノには見慣れないものだった。襟付きで白一色の――ただし左胸に「高町」と青色の刺繍が入っている――半袖シャツと、太股にぴったりフィットした紺の、なんというべきか――ショーツみたいな形状の――短パン。本当に短パンなのかは謎である。ユーノは知らないがその名をブルマーと言った。そしていつものサイドポニーではなく、普通のポニーテール。とりあえず、動きやすそうな格好ではあった。
ユーノの視線に気付いたのか、なのはは照れ臭そうに笑って、両腕で膝を抱え込んだ。いわゆる体育座りの格好だ。ソファの背もたれに身体を沈ませるように寄りかかる。服を見られるのが恥ずかしかったのかもしれないが、ユーノからすればむしろ、惜しげもなく晒される白く眩しい生足のほうにこそドギマギする。もちろん態度には出さない。
「あー、そっか。学校でしか着ないから、ユーノくん見たことないんだ。学校の体操服なんだよ、これ」
なのはが説明してくれた。だいぶ昔にユーノが通っていた魔法学校にも体育の授業はあったが、動きやすく、かつ派手でなければ着るものはなんでもいいということになっていた。ミッドの学校でも指定のある方が一般的だが、なんにせよ、そういう過ごしてきた環境の差異をどことなく面白く感じる。
「荷物の片付けでいろいろ動き回らなきゃだし、こんな機会でもなきゃもう着ないだろうから、気まぐれに着てみたんだけど……どうかな。似合ってる?」
膝の前で組んだ両手の指をもじもじと絡ませながら、なのはが言う。その割に体育座りのままなので、体操服はよく見えない。ただ、三角形に開いた両脚の隙間の奥、太股の付け根あたり。ブルマーの深い紺色の下から、チラチラとわずかに覗く桃色が視界の隅に映った。何気ない風を装って視線を逸らした。
「あー……なのはは素がいいから。何着ても似合うと思うよ」
「むー。それって誤魔化されてるみたいであんまり褒められてる気がしないなー」
「別にそういうつもりじゃないけど」
「えへへ。だいじょーぶ、ちゃんとわかってるよ。ありがとね、ユーノくん」
なのはは悪戯っぽく笑うと、体育座りを解いてテーブルの上のマグカップに手を伸ばす。縁に口付けて軽く傾けると、白い喉がこくこくと鳴った。
「ふはー。ごちそうさま、おいしかったよ」
「お粗末様。今度は隠し味に愛情を入れとくよ」
「ううっ……ユーノくんがイジワルするー……」
「気のせいだよ、たぶん」
「むー」
なのはは、ぴょん、と飛び跳ねるように身を起こして立ち上がった。一度、んー、と目一杯伸びをしてから、下ろした両手でブルマーの裾――裾なのか?――を左右それぞれに抓んで、くいくいとズレを直す。ほとんど無意識の仕草だったのか、なのはは全く気にしていない風だった。ユーノは実にタイミングよく、あくまで気まぐれに自分の手相を見ていた。当然、ただ見ていただけで、そこに何が出ているのかはさっぱりだった。
「そろそろ戻るね。片付けも途中だし、散らかした服も放りっぱなしだもん」
「ああ、ごめん。引き留めちゃったね。手伝おうか?」
「ユーノくん!」
ずびし、となのはは左手の人差し指をユーノの鼻先に突き付けた。思わずわずかに後ずさる。右手は腰に手を当て、その腰は座ったままのユーノに視点の高さを合わせるように、前屈み。先生が教え子に注意しているかのような図だった。
「頼りになるからって頼りすぎると、人間は堕落していくものなのです」
「はぁ」
本当に先生っぽい口調で何事か語り出したなのはに、ユーノはとりあえず相槌を打った。
「ここでユーノくんに頼ったら、そりゃ片付けは早く終わってゆっくりできるかもしれない。引っ越し記念ってことで、ユーノくんの奢りで素敵なディナーに出かけることになるかもしれない」
「いや、奢らないけど」
「でも、でもね! そうしたら、わたしはいつまで経っても成長できなくなっちゃうと思うんだ」
ユーノの控え目なツッコミをスルーして、なのはは続ける。
「今までみたいに学生との両立じゃなくて、本格的に局のお仕事一本になるから、家を出て寮を借りて、一人暮らしを始めることにしたの。一人暮らしってことは、これからは何でも一人でやらなきゃいけないってことだよ。もう子供じゃないんだし、自立しなきゃいけないの。なのに、その一番最初から人に頼っちゃうのってどうかと思うんだ」
「おお……なるほど」
意外にも真面目な話で、ユーノは素直に感心した。あまりに感心しすぎて、思わずなのはの頭の上に手の平を乗せて撫で撫でしてしまった。サラサラとした絹のような髪の感触が気持ち良かった。
「……ユーノくん。何かな、その手は」
「いや、なのはは偉いなぁって」
「もう子供じゃないんだからって言ったそばから子供扱いしてくるユーノくんは、やっぱりイジワルだよ。というか真面目に聞いてなかったでしょ」
「そんなことないと思うけど」
「そんなことあるの!」
毛を濡らした犬か猫かのように頭をふるふる振って、なのははユーノの手から逃れた。そのまま、たったと玄関口まで駆けていく。逃げられた、とユーノは名残り惜しさを覚えた。もう少しの間、なのはを子供扱いしていたかったような気がする。自立しなきゃいけない、そう言われて寂しく思った自分は、いったいなのはの何なのだろう。
「とにかく、そんなわけだから! これからよろしくね、お隣さんっ」
「ああ、うん。よろしく」
「じゃあまたね、お邪魔しましたー」
ぱたぱたと手を振るなのはに、ユーノも同じように振り返して、体操服の背中を見送った。
なのはが部屋に戻ってから2時間ほど経った。インスタントのナポリタンで軽く夕食を済ませ、食後にやはりインスタントのコーヒーを飲み干してから、ユーノは執務用の机で論文に取り掛かっていた。壁向こうの隣室からは、時折物音が聞こえてくる。
(なのは、あれでけっこうどんくさいところがあるからなぁ。大丈夫かな)
この7年でいくらかマシになったとはいえ、やっぱり運動は苦手だと、なのは自身がよくそう零していたのを思い出す。魔法の補助無しでは相変わらず運動音痴のなのはだった。
やはり男手があったほうがいいのではないだろうか。引っ越しならば、それなりに力仕事もあるはずだ。体操服姿のなのはの身体はほっそりしていて、華奢で、いかにもか弱そうだった。自分だってそう腕力があるわけではないが、それでも素のなのはよりはマシだろう。マシでありたい。
(重い荷物を運んでる途中で、それを足の上に落として悶絶してたりしたらどうしよう)
その図はわりと簡単に想像できた。あんまり痛そうなのでつい治癒結界を張ってあげたくなったが、しょせんは妄想なので叶わなかった。
そんな風に、なんだかんだとなのはのことが気になったので、当然のごとく論文は進んでいない。それどころか、頭の中にある程度纏まっていたはずの内容まで、綺麗さっぱりだった。恐るべきはユーノの心を掻き乱す諸悪の根源、高町なのはである。
「ふぅー……」
長めのため息をついてから、伸びをする。これ以上やっても捗らないのはわかりきっていた。時計を見ると、8時を少し過ぎたところだった。
「なのははもう、晩御飯食べたのかな」
ついそんな言葉が口から出ていた。いくらなんでも心配しすぎだろう、と自分の過保護さに苦笑する。僕はなのはのお父さんか何かなのか、まったく。いやしかし、本物の父親のほうもこんな風に気を揉んでいるような気がして笑えない。
これからなのはを素敵なディナーに招待するのも吝かではない気分になってきていた。自分の奢りになったって構わない。自立を目指すというなのはの言い分はもっともかもしれないが、引っ越しのお祝いぐらい、させてもらってもいいはずではなかろうか。ユーノはもう夕食を済ませてしまっていたが、適当にコーヒーだけ頼んでおけばいい。あくまでなのはのお祝いなのだから。ついでに出費もかさまない。
「よし」
思い立ったが吉日、という言葉がなのはの国にはあるらしい。ともかくユーノは立ち上がった。身形を整え、財布の中身を確認し、いざ出立、というところまで来て、その気勢を削ぐかのように、ピーンポーン、と間延びしたチャイムの音が鳴った。
「まったくタイミングの悪い……」
もしも訪問者がクロノだったら強制転送で次元の狭間にぶち込んでやる、などと物騒なことを思いつつ、ユーノは玄関口へ向かった。扉を開ける。そこにいたのは果たして無愛想な7年来の悪友、ではなく。
「な、なのは?」
「やっほー、ユーノくん。元気にしてた?」
元気も何も、ついさっき会ったばかりである。ただ元気なのは間違いなかったので、「うん、元気元気」と答えておいた。相変わらず体操服で、なぜかその上にエプロンを重ね着しているなのはが、その答えに満足したかのように笑顔を浮かべる。
「ねぇユーノくん、もう晩御飯食べちゃった?」
「え、ああ……まだ、だけど」
そもそもこれからディナーに誘おうとしていたのだから、嘘でもそう言わざるを得なかった。しかしこれは、どうにも先手を取られているのではないかとユーノは思う。
「ほんと? よかったぁー。あのね、お蕎麦作ったんだけどこれから一緒に食べない? あ、お蕎麦って言ってわかるのかな。麺だよ、麺。どお?」
小鳥みたいに首を傾げて訊いてくるなのはに、ユーノが返せる答えは一つだけだった。
お盆の上に湯気が昇り立つ丼を二つ乗せて、なのはは再びユーノの部屋に入った。二人で食べるには、まだなのはの部屋は散らかりすぎで手狭なのだという。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
二人で向かい合って、ずるずると蕎麦を啜る。なのはによると、蕎麦という食べ物は音を立てて食すのが粋なのだという。奇しくも麺類が続いてしまったユーノだが、麺としてもまったく別物なので、特に飽きは来なかった。
「初めて食べるけど美味しいね、これ。スープもさっぱりしてて、麺によく合ってる」
「ほんと? ミッドの人の口に合うか、ちょっと心配だったんだ」
舌鼓を打つユーノを、なのはが微笑んで見守る。綺麗な夜景を一望できるレストランとか、場所が場所なら良いムードになっていたかもしれないが、少なくともユーノはそんなことを気にはしなかった。多分、なのはだってそうだろう。僕たちはこれでいいんだ、と思った。
「日本には引っ越し蕎麦っていう風習があってね、まあ最近はあんまりやらないみたいなんだけど。引っ越し先のご近所さんに、これからよろしくお願いします、ってお蕎麦を配るんだよ」
「へぇ……なんでまたソバなの?」
「うーんと、確か……ほら、麺だから。細く長くお世話になります、って意味があるんだったかな。あと、側に引っ越してきた、っていう掛け詞とか」
「ほー、なるほどね」
和気藹々と話が盛り上がっているうちに、二人とも食べ終わった。ごちそうさま。おそまつさま。いくら麺類は消化がいいとはいえ、さすがにユーノはほんの少し息苦しさを感じた。
「はい、お茶」
「ん、ありがと」
「じゃあわたし、洗い物してくるよ。キッチン借りるね」
なのはが自分の部屋から持ってきた急須で緑茶を注いでくれた。湯気立つそれに軽く息を吹きかけてから口にする。独特の香りと苦み。少し気分が楽になったように感じた。
キッチンに立つなのはの後姿に目を向ける。カチャカチャと食器の触れ合う音と、ジャーと水の流れる音。その様子が、なのはの家で暮らしていた頃に何度か目にした、高町桃子の背中と重なった。やっぱり親子だなぁ、とユーノは思って、どういうわけか胸の奥で何かが軋むのを感じた。それはきっと寂しさのようなもので、しかしほんの些細な感覚だったから、気のせいということにして流した。
なのはは先ほどの体操服の上に、ピンクのエプロンを着用していた。控え目にあしらわれているフリルが可愛らしいが、体操服との組み合わせはどうにもマニアックな気がしてならない。そして相変わらず、ブルマーから伸びる白い足が眩しい。ユーノは目を細めた。
「ねぇ、ユーノくーん」
いきなり声をかけられた。内心びっくりどっきりだったが、あくまでも平静を装って答える。
「なぁにー?」
「実はもう晩御飯食べちゃってたでしょー」
あ、とユーノは思い出した。さっき食べた、インスタントのナポリタンを盛った皿を流し場に置きっ放しにしていたのだった。
「もー、そうならそうと言ってくれればよかったのに」
「いや、あの、えーと」
「ほんとユーノくんって、優しいというかお人好しというか……でもまあ、そこがユーノくんの良いところだもんね。わたしも好きだよ、ユーノくんのそういうところ」
「……そりゃどうも」
実にバツが悪かった。ただでさえ、元はこっちが誘うはずだったのに逆にご馳走になってしまっている。見栄とか意地とか、そういうものにはあまりこだわらないユーノだが、今日はなんだかこだわってみたかったのだ。
「お腹痛くなったりしてない?」
「それは大丈夫だけど」
きゅっと水を切る音が聞こえて、なのはが戻ってきた。エプロン姿のままユーノの隣に腰かけて、そのお腹を優しい手つきで擦る。
「ちょっと膨れてるかな?」
「かもしれない」
「次からはちゃんと言ってね」
「うん」
次。次があるのだと、なのはがそう言ってくれたことが、ユーノの腹の中をほんの少し軽くした。
しばらく雑談してから、お盆の上に丼を乗せて、なのはは自室へ戻っていった。散らかった衣類や必要最低限のものの整頓は終わったので、本格的な作業は明日に回して、後はお風呂に入って寝るだけなのだという。早寝なのは昔から変わらない。そして変わらずに早起きでもあるのだろう。
再び論文に取り掛かる気にもなれず、ユーノも風呂の用意をすることにした。いつもはシャワーで済ますが、今日は湯に浸かりたい気分だった。浴槽の水位がじわじわと上がっていくのをボーッと眺めながら、ユーノは隣人を想った。
なのはに最後に会ったのは、ほんの1週間前だった。海鳴で行われた、中学卒業パーティー兼なのはの誕生日パーティーにユーノも招かれていた。関係各位の日程を揃えるのはけっこう難儀なことで、1日にまとめてやってしまうことになったのだった。さらに言えば、中学卒業を機に活動の場をミッドチルダや本局に移すなのは達にとっては、海鳴に暮らす人々とのお別れパーティーも兼ねていた。永久の別れではなくても、それまでのように気軽に会えなくなってしまうのは間違いなかった。全員のオフが奇跡的に重なったその日はなのはの誕生日で、早生まれのなのはは、皆より一足遅れて15歳になった。
それから1週間。齢にして15歳と1週間になったなのはは、少し雰囲気が変わったように思われた。どこがどう、とはっきり言えるわけではない。ユーノの錯覚に過ぎないかもしれない。錯覚であったらいいな、と思う。気付けば浴槽はすっかり湯で満たされていた。すぐに入る気にもならなかったので、蓋を閉めて保温スイッチを押しておく。
「なんだかなぁ……」
要するにユーノ・スクライアは、高町なのはに、変わってほしくないのだった。永遠なんてない、みんな変わってく、変わらなきゃいけない。昔そんなことを言っていたのは、当のなのはで、その言葉は間違っていないのかもしれないが、じゃあ自分はこの7年で何か変わることができたのだろうか。その実感がないから、なのはにもそれを求めてしまっているのかもしれない。実に身勝手だった。身勝手だという自覚はあるのにそれで自己嫌悪に陥るわけでもなく、ユーノは自分のことながら性質が悪いと思った。
飾り気皆無の壁に目を向ける。透けて見えるわけもないが、その向こうにはなのはがいる。出逢って7年。これほどまで彼女と近しい場所で日々を過ごすことになるのは、出逢ったばかりの頃、高町家でフェレットとして過ごしていた時以来になる。ただ、壁1枚の隔たりが、当時とは比べ物にならない距離を感じさせた。その距離をもどかしく思った。
変わりたくない、変わってほしくないのではなく、戻りたいだけなのかもしれない。変われば変わるほど、戻るのが難しくなるから。
ユーノは立ち上がった。
それは確か、6年前のユーノの誕生日だった。
ささやかなパーティーとは別に、なのはに誘われて、二人で海鳴の街を歩いた。途中、映画を見ようということになって、なのはから「ユーノくん、どれ見たい?」と問われて選んだのは、ハリウッド発のホラー超大作であった。別にユーノがホラー好きというわけではなく、よくわからなかったので適当に選んだだけだった。それがいけなかった。「なのはは?」と一言でも訊いておけばよかったのだ。もっとも訊いたところで「ユーノくんの誕生日なんだからユーノくんが見たいのを見ようよ」と、なのははそう答えていただろう。
結論を言えば、高町なのはという少女はホラーやらオカルトやらの類が大の苦手なのだった。ジュエルシードの暴走体や闇の書の闇のほうがよっぽどホラーでオカルトでグロテスクで恐ろしい気がしないでもないが、そこはそれ、複雑怪奇な乙女心というものである。
映画が始まって数分のところでなのはは恐怖のあまりユーノにしがみつき、すんすんと泣き始めた。時折悲鳴をあげて、周囲の視線を集めたりもした。途中、静かになったなぁ、とユーノがなのはの様子を窺ってみると、見事に気絶していた。ここまで恐がってくれるなら、制作側もクリエイター冥利に尽きるというものだろう。そんなレベルの話である。ちなみに、ユーノはユーノでしっかり映画を楽しんだ。古代の遺跡に封じられていた亡霊軍団が復活して云々というストーリーだったのだが、その古代遺跡や文明の設定、セットのディテールがなかなか作り込まれていて、ユーノを満足させたのだった。
そして、それから6年が経った今。
「なななな、なん、なんっ、なんでもっと早く教えてくれなかったの!」
「いやごめん、色々あったから忘れてた」
ユーノがなのはの部屋のチャイムを押したところ、なのははちょうど風呂上がりだったらしい。上気して薄紅色に染まった肌が艶めかしかったが、ユーノが一言、「この部屋“出る”らしいよ」と告げると、それは一瞬で真っ青になった。なのははそのまま一目散にユーノの部屋へと逃げ込んで、今に至る。とりあえず、なのはは物好きではなく哀れな仔羊のほうだったらしい。 ちなみにユーノが噂についてなのはに教えるのを素で忘れていたのは本当のことだった。
「ううーっ、こんな話、部屋借りる時にはなんにも言ってなかったのに! 生活課のオジサンめーっ!」
「ま、いつまでも空き部屋にしとくわけにもいかなかったんだろうね」
のほほんと答えるユーノは、ソファの上で身体を丸めて震えを抑えようとしているなのはのために、温かいココアを作っているところだった。“出る”という噂があること自体は本当だとはいえ、こんな卑怯な真似をしてしまったのが情けない。一方で、なのはが変わらずに恐がりでいてくれたことが嬉しくもあった。実は僕ってけっこうサディストなのではないかと、自分の性癖を疑ってみる。すぐにどうでもよくなった。
「はい、なのは。ココアだよ」
「あ、ありがと……」
なのはが震える手をゆっくりと伸ばして、マグカップを両手で包み込む。体操服から一転、薄いピンクのゆったりしたパジャマがなのはの身体を包んでいる。肌の露出は減ったが、むしろ一層無防備になったようにも見えた。ちびちびとココアを口にして、なのはも落ち着いてきたのか身の震えが小さくなっていく。いったい僕は何をやってるんだろう、とユーノは思った。
「とりあえず、お風呂行ってくるよ」
「ええっ」
「……なに、その思いっきり不満そうな声」
「だって……」
恐いんだもん、とまでは口にしなかったが、ユーノは、目は口ほどに物を言うという言葉の真髄を理解したような気がした。見上げてくる瞳はまるでチワワのようだった。
「なのは、“出る”のは隣の、なのはの部屋だよ」
「でも相手は幽霊なんだよ? オバケなんだよ? 壁をすり抜けてこっちに入ってきたらどうするの!?」
「いや、まあ、正直その発想はなかったけど」
そもそもユーノは、噂そのものを大して信じていない。ほんの思いつきだったので、その後どうするかも深く考えていなかった。というか、自分で火を点けといてなんではあるが、ここまで恐がらなくても。
「あのさ、別に僕が一緒じゃなくてもレイジングハートが……そういえば今日は姿を見てないけど」
「今日と明日はマリーさんのところでフルメンテだよ。だからわたし、今一人なの。ねぇ、ユーノくん。だからね、ね」
「そう言われても……じゃあ聞くけどいったいどうするのさ。まさか」
「一緒に入る、とか?」
「それはないでしょ」
「ないかなぁ……」
「ないない」
件の6年前にも、二人は似たようなやり取りをしている。当時は、要約すると「一人じゃ恐くて寝れそうにないからユーノくん抱き枕になって」的なことをなのはが言って、問答の末ユーノが折れて、フェレット形態でなのはの胸に抱かれ一夜を明かしたのだった。
(あれ、よくよく考えてみたら似たようなやり取りどころか、風呂から出た後まったく同じ展開になるのでは)
気付いてしまったユーノは、頭を抱えたい気分になった。やはり大胆な行動を起こす前には、慎重に、熟慮の上に熟慮を重ねるべきだった。
なのはの望みを叶えることは、ある意味で“戻りたい”というユーノの願望を実現するかのようでいて、それは絶対にありえない。どうやったって戻れないことを知っているからこそ、“戻りたい”と願うのだ。そうだ、昔は、あの頃は、風呂に連れ込まれたって一緒に寝たって、ただ恥ずかしいというだけだった。今ではもう、それだけでは済まされない。済ませられる自信がない。
きっと、触れたくなってしまう。触れて、それ以上のことをしてしまいたくなってしまう。
(なんだ、僕もしっかり変わってるじゃないか、あの頃から)
ようやく実感したそれが、“なのはをそういう目で見るようになってしまった”ことなのが、少なからずショックだった。そうして自覚しながらも、無理だとわかっていながらも、一方で願ってしまう自分がいる。
「……自立しなきゃいけないんじゃなかったの、なのは。頼りになるからって頼りすぎたら、堕落するって」
「うっ……それは、その」
なのははあからさまに痛いところを突かれたような様子を見せた。ユーノにとっても痛かった。本当は自立なんてしてほしくない、頼ってほしいのに、正反対のことを口にしている。自立なんてとんでもない話だと思った。特になのはは、ずっと誰かが見ていなきゃならない子だと思っていた。極端な話、目を離して、なのは一人に空を飛ばせてしまったら、今度こそ死ぬんじゃないかと心配でならないのだった。ユーノは親馬鹿な父のように過保護で、しかしその過保護を間違いだとは思わなかった。なのはが空を飛ぶこと、それ自体は否定しない。ただ、彼女がもう無茶をしないよう、二度と墜ちないよう、誰かがお目付け役にならなければならないと考えた。
「えーっと……人間、たまには堕落も必要なんじゃ……ない、かな?」
そう言うなのはは、悪戯を見咎められてこっぴどく叱られた子供のようだった。そんな、あっさりと堕ちた高町なのはを、ユーノは愛おしく思う。
「……まったく。しょうがないなぁ、なのはは」
精一杯呆れている様を装いながら、なのはの柔らかな髪の上に、そっと手を乗せる。小さな子供をあやすように撫でてやると、なのはは照れ臭そうに、くすぐったそうに、目を細めた。
結局、ユーノが風呂に入っている間、なのははそのすぐ側、浴室のドアの前で待っているということで決着が着いた。湯船に浸かって足を伸ばす。最近少し身長が伸びたのか、心なしか狭く感じた。
「ごめんね、ユーノくん」
曇りガラスのドア越しに、くぐもった声が聴こえた。ちらと視線を向ければ、丸くなってドアに寄りかかる人影が見えた。
「今夜一晩だけでいいから、頼らせて」
「一晩だけでいいの?」
「うん。一晩だけ」
新しい部屋を探すのだという。本局内の寮で駄目なら、ミッド地上の首都クラナガン。それ以上遠くなると、交通の便が悪すぎて仕事にならなくなるらしい。新年度が始まる時期であるため本局も首都も、貸し部屋はどこも出入りが激しい。そうそう都合の良い物件が見つかるとも思えなかった。
「別に、なのはにこの部屋使ってもらって僕が隣に移るってことでもいいんだよ。そんなに恐いの、幽霊」
「うーん。確かに恐いっていうのが一番だけど……ねぇユーノくん。わたし、前に一度死にかけたことあったよね。覚えてる?」
「そりゃ、まあ」
忘れられるわけがない。あの事件はユーノのみならず、なのはと親しい者全ての心に、何らかの楔を打ち込んだのだ。表面上はなんともないように、けろりとしているなのは自身にも、きっと。
「あの時、あのまま死んでたらわたし、きっと化けて出てたと思うんだ。やりたいこと、守りたいもの、たくさんあって。未練たらたらで。自業自得で死んどいて迷惑な話だけどね」
「……ありえたかもね、そんなことが」
「うん、あったかもしれない。だからなんというか、まあ……わたしの独り善がりな思い込みではあるんだけどね、幽霊の気持ち、わかる気がするんだ。死んじゃった人が、幽霊になってまでこの世に残ろうとしてる。それってよっぽどのことだよ。邪魔しないで、静かにしておいてあげたいでしょ」
なのはらしい考え方だと思った。けれどそれは同時に、ユーノの知らないなのはでもあった。変わったようでいて、変わらない。変わらないようでいて、変わった。両手で湯を掬って、その中に顔を叩き付ける。バシャンと音がして、そのまま力任せに拭った。まるですっきりなんてしない。何もかも、よくわからない。
「んー、考えてみたら、もうすでにけっこう怒ってるのかも」
なのはが、ドア越しでギリギリ聞き取れる程度の声で言った。ユーノはなんとか聞き逃さなかった。
「なにが?」
「お隣の幽霊さん。ほら、ユーノくん、わたしが服の山に埋まってた時に助けに来てくれたでしょ。変だと思わなかった?」
「ああ、うん」
特に気にしてはいなかったが、確かに変だった。あの程度、身体に適当に魔力を流して身体能力強化を施せば、自力で簡単に脱出できたはずだった。
「不思議なことにね、魔法が全部キャンセルされちゃったんだよ。うんともすんとも言わないの」
「それは不思議だ」
「あれ……改めて考えてみたら、わたしってばものすごい恐怖体験をしてしまったのでは……?」
「かもしれないね」
「ど、どうしよう、恐くなってきた……え、えーと、えーと……あ、そうだっ、ユーノくん、お背中流してあげる! だから、その、一緒に」
「一人でできるから。それと、今さら手遅れなんじゃない?」
「ゆ、ゆーのくんのいじわるー……」
ふぇぇ、となのはの涙声が聴こえてくる。ユーノは顔の下半分を湯に浸けて、その下で薄く笑みを浮かべた。
本当に、よく、わからない。
なのはが急かすのでさっさと髪と身体を洗って、二人は寝室に移っていた。ごくごく普通のベッドが一つと、その横にサイドテーブル。机としても使えそうな化粧台と本棚、壁にはクローゼット。本局居住区の寮にデフォルトで備えられえいるものが、ほぼそのままの形でそこにあった。本棚に限界まで詰め込まれている難しそうな本の数々が唯一のユーノらしさと言えた。
「そもそもユーノくんの部屋に入ったのって今日が初めてだけど、全体的に殺風景だよね」
「そうかな。男の部屋はみんなこんなもんだと思うよ。それに、クロノよりはマシな気がする」
「ふーん。そんなもんなんだ」
「そうそう、そんなもんなの」
言いながら、クローゼットの奥底から冬用の厚い毛布を引っ張り出す。寮に入る時に持ち込んだはいいが、そもそも時空管理局本局は次元空間に浮かぶ巨大な艦であり、その内部環境は機械的に調整されている。当然四季による温度変化とは無縁なので一度も使ったことがないのだった。
「何してるの、ユーノくん」
早くもなのはに目を付けられたが、別に隠しているというわけでもなかった。
「僕はこれに包まって寝るから。なのははベッドを使いなよ」
「ええっ。ユーノくんも一緒にベッドで寝ようよー」
予想通りの反応ではあった。なのはの言葉の裏にあるのは、ユーノへの信頼とお隣の幽霊さんへの恐怖が4対6ぐらいだろう。あるいは3対7かもしれないし、飛んで1対9かもしれない。恐怖10割という可能性だってある。自分への信頼が如何ほどのものだろうと構いはしないが、ユーノはその信頼を間違いなく裏切る自信があった。相手がなのはでなく、例えばフェイトやはやてであったとしてもそれは同じで、だからこそユーノは確信していた。女だったら誰でもいいと単純に言ってしまえば実に最低ではあるが、思春期なのだから仕方がない。問題は、その“女”が今、高町なのはであることだった。
「一緒の部屋で寝るっていうのが最大限の譲歩だよ。そもそもリビングのソファで寝ようと思ってたぐらいなんだから……この程度乗り越えられなきゃ、これから先とても一人暮らしなんてできないね。自立なんて無理無理。諦めて実家に帰ったほうがいい」
「むー……そ、そこまで言うなら……いいよ、一人で寝るもん。寝ればいいんでしょ」
安い挑発だったが、なのはは乗ってくれた。柔らかく穏やかな女の子らしさとは裏腹に、頑固で負けず嫌いなのが高町なのはという少女だった。多少機嫌悪そうに頬を膨らませているのはご愛敬。煽りが効いたのか、どちらがベッドを使うかの問答にまでは発展しなかったのが僥倖だった。
ユーノが毛布を広げる横を通り過ぎて、なのはは倒れ込むようにしてベッドの上に寝転がった。ぼすっ、と顔を枕に埋めて、そのまま動かなくなる。しばらくして、言った。
「ユーノくんのにおいだー……」
その声からは、険は取れてもはや不機嫌さは微塵も感じられない。足をばたばたさせて、顔は枕に埋めたまま、その枕を両腕でぎゅっと抱き締める。とどめとばかりに、そのままベッドの上をごろごろと左右に転がった。
「んー……」
「……何やってるの、なのは」
「んー? えへへ」
顔は見えないが、声の調子だけ聞いているとだらしのない笑みを浮かべているように思われた。なのはのそんな顔は見たことがないので想像はできそうもなかった。
「ユーノくんのにおい、フェイトちゃんともはやてちゃんとも、全然違うねぇ」
「そりゃそうだろうけど」
気恥かしくてたまらない。考えてみれば、なのはにベッドを提供するというのも問題があった。ベッドのシーツともなると洗濯が少々面倒で、どうせ他に使う者がいるわけでもなし、2ヵ月おきに洗う程度だった。最後に洗ったのは1ヵ月半ほど前か。枕だって同じである。その間のユーノの寝汗やら何やらが全て染み込んでいるわけで、年頃の女の子にそれはないだろう、とユーノは今さらに思ったのだった。どう見たって嫌がっているようには見えないが、それが余計に恥ずかしい。
「……なのはがにおいフェチだとは知らなかった」
「ふぇぇっ!? ち、違うよー!? 別にそんなんじゃ……!」
照れ隠しに言っただけだったが、なのはは予想していた以上に狼狽した。その割に枕から離れようとはしない。実は図星なのかもしれなかったが、追及しようとは思わなかった。それ以前に、「においフェチ」で意味が通じてしまったのが少なからず衝撃だった。
「あー……寝る前にお願いがあるんだけど」
「な、なぁに?」
「バインドかけて」
両手を前に差し出すと、なのははようやく枕から顔を離した。酷い顔をしていた。
「う、ううん、大丈夫。ユーノくんがそういう趣味でも、わたしは気にしないから」
「思いっきり誤解してるみたいだけど違うから。違うからね?」
「そんな必死になって誤魔化さなくても……ほんとに大丈夫だから。これでも懐広いつもりだよ、わたし」
「あー、もう、だから誤解だって言ってるじゃないか、このにおいフェチ」
「そ、そっちこそ誤解だよ。別にわたし、においフェチなんかじゃないもん」
不毛な言い争いが始まったが、1分も経たないうちに終結した。不毛だったからである。ユーノがゴホンとわざとらしく咳をついた。
「なんというか、ケジメだよ」
「ケジメ?」
「そう。残念なことに、僕らはいつまでも子供のままじゃいられないんだよ。なのはだってわかるよね?」
そう口にするのには、けっこうな勇気が必要だった。一方で、もっとはっきり言うべきだったのではないかとも思うが、とても出来そうにはなかった。いよいよ後戻りできなくなるほどの決定的な変化が起こってしまいそうで、恐くて仕方がない。
「じゃ、わたしも」
そんなユーノの苦悩を知ってか知らずか、なのははほんの小さく笑みを浮かべて、同じように両手を揃えて差し出した。
「……なんでなのはまで」
「ユーノくんが今、言ったんでしょ。いつまでも子供のままじゃいられないんだって。ユーノくんだけなんて、不公平だよ」
その笑みの向こうでなのはが何を思っているのか掴めなくて、心の奥底のほうがざわつくのを感じた。湧き上がり、喉奥から吐き出されそうになるそれを無理やり呑みこんだ。
「足も、お願いしていいかな」
「足も? うーん、朝起きたら、身体の節々が痛くなってそうだね」
「そしたらヒーリングぐらいはさせてもらうよ」
「ほんと? ユーノくんの治癒魔法ってあったかい感じがして好き。バインド、ガチガチにしちゃっていいから」
「なのはも十分変な趣味してる」
「えー、そんなことないと思うんだけどなぁ」
互いの両手首に手錠のような形状のバインドを嵌めて、それぞれの寝床に潜り込んでから、足首にも同様のバインドをかけ合う。それだけでかなり身動きが制限されて窮屈だったが、ユーノは魔力で形作られた桜色の拘束具から、温かさのようなものを感じた。
「じゃあ……おやすみ、なのは」
「ん。おやすみ、ユーノくん」
そのまま、言葉少なに二人は眠りに落ちた。少なくともユーノにとっては、驚くほど穏やかな眠りだった。
高町なのはは、己の愚かさを嘆いた。
寝る前にトイレ行っとけばよかった、と。
「うー……バインド硬すぎだよぅ……」
地上でなら夜明けとされる時刻にはまだ遠い。ふと目を覚ましてしまったなのはは、恐ろしく強固なバインドを打ち崩すべくベッドの上で身を捩っていた。単純な腕力で破壊できるわけもないので当然魔法、バインドブレイクを行使しているのだが、プログラムを介入させたところでことごとくレジストされてしまうのだった。なにも本当にガチガチにしなくても、となのはは八つ当たり気味にユーノの律義さを呪う。
常のなのはなら、そこまで手間取ることはなかったかもしれない。しかし、じわじわとせり上がってくるかのような――尿意と、それに伴う焦燥が、なのはの思考に乱れを生み出し、集中を欠かせていた。加えて今はレイジングハートの補助もない。
毛布に包まって、ぐっすり眠っているユーノを叩き起こしてバインドを解除してもらえば済む話ではあるが、それはなんだか負けであるような気がして癪だった。何より、「トイレ行きたいからバインド外して」なんて言うのは、女の子として恥ずかしい。そしてそれ以上に、仕事で疲れているはずのユーノの眠りを妨げてしまうのが嫌だった。
「くぬっ……くぬっ……ああっ、ううー、こ、このままじゃ……!」
しかし肝心のバインドには、ヒビひとつ入らない。ユーノと出逢って、レイジングハートを手にして、魔法使いになって7年。ピンチは数え切れないほどあったが、しかしこれほどの危機がかつてあっただろうか。あったはずなのだが、今の切羽詰まったなのはには、とてもそうは思えなかった。
(こ、このままバインド外せなかったら……どうしよう……)
15歳にもなって――お漏らし。しかも、ユーノから借りているベッドの上で。間違いなく破滅だった。ユーノは言い触らしたりしないだろうが、他ならぬユーノただ一人に知られることこそが破滅であった。二度と彼の顔をまともに見られなくなって、二人の関係はどうやったって元には戻れなくなってしまう。
「う、うぅ……そんなの、絶対にいやぁ……」
何より理由が情けなさすぎた。どうせ元に戻れなくなってしまうなら、他にもっと、何か――そんなことを考えている暇があったらバインドの解除に注力するべきだ、と思い直す。
しかし、なのはの我慢も限界を迎えつつあった。もじもじと腰を揺らして必死に耐えるが、長くもちそうにない。そのような精神状態ではまともに術式の構築ができるわけもなく、無駄に強固なバインドはビクともしなかった。加えてなのはの戦いはバインドを解くだけで終わりというわけではない。無事にトイレまで辿り着くことも考えなければならず、それを入れればリミットまではあとわずか。いよいよ追い詰められた形になる。
ここに来てなのはは、最後の手段を取らざるをえなくなった。
「うっ、うう……ユーノくん起きて! おトイレ行きたいからバインド解いてぇぇぇ!」
実際に叫んでみてわかったが、どちらにせよしばらくはユーノの顔をまともに見られないような気がした。
「あ、危なかったぁ……」
水流の音を背に、バタンと扉を閉める。ふぅ、と一息ついたなのはの顔は、辛く苦しい戦いを終えた後かのように憔悴しきっていた。早くベッドに戻って安眠を貪ろう、と心に決める。
寝室までの短い距離とはいえ、暗いままの室内を歩くのは少し恐かった。何と言っても、隣室には幽霊が住んでいるとの噂だ。しかし明かりのスイッチが見つからないので、手探りで進まざるをえない。行きは脇目も振らずにトイレに駆け込んだが、よくもまあ転ばなかったものだ、となのはは自身のことながら感心した。
怪奇現象に遭遇することもなく、無事に寝室まで辿り着く。自立した大人への一歩を確かに達成したんだ、となのはは小さくガッツポーズを作った。ベッドに向かう途中、何か柔らかいものを踏みつけそうになって、慌てて足を引いた。ユーノだった。寝惚け眼でバインドを解除してくれた彼は、早々に夢の世界へと戻っているようだった。
「かわいい寝顔……わたしはあんなに大変で恥ずかしい思いをしたのに……」
すやすやと穏やかに寝息をたてる彼の顔を見ていたら、だんだんと怒りが湧いてきた。あきらかに八つ当たりだし、なのはにもその自覚はあったが、なんとかして「ぎゃふん」と言わせてやりたい気分だった。それに、今夜一晩はユーノに頼ってしまおうと決めたのだから、そんな風にちょっとくらい甘えてしまってもいいのではないかと思う。
「んー……」
とりあえず、彼の身を包む毛布をひっぺがす。わずかに身じろぎしたが、起きる気配はない。両手両足を拘束するバインドが、実際に目にしてみると思った以上に窮屈そうだった。つい、バインドを解いてしまう。
「どうしよっかなぁ」
取り留めのない悪戯が、いくつも浮かんでは消えていく。シミュレーション。とりあえず額に肉とか頬に髭とか、落書きしてみる。朝になって目が覚めて、洗面所で悪戯に気付いた彼はいくらか驚いた後、苦笑いしながらこう言う。まったく、しょうがないなぁ、なのはは。
「むむむむむ……」
癪だった。癪で仕方がない。そりゃまあ、早生まれの自分はほとんど一年分、彼より歳下だけれど。だからって子供扱いしすぎではないか。癪だった。癪で仕方がない。何より、彼に子供扱いされることを、なんとなく心地よく感じてしまう自分自身が癪でならない。
なにかこう、オトナの魅力溢れるアダルティな悪戯はないものか。すでに矛盾しているような気もするが気にしない。ふと思いつくものがあった。
「添い寝、とか」
目が覚めたら、さぞかし驚くだろう。そして彼はこう言う。なにやってるんだ、ダメじゃないか、もっと自分を大事にしないと、まったくもう、なのはは。なぜか怒られている自分の姿が浮かんだ。そうやって怒ってもらえるだけまだ幸せなのだ、と何かの本で読んだ。確かに幸せな気がするが、しかし廃案だった。今求めているのは、それではない。
「んーと……あ。これならどうかな」
ゆっくりと身体に魔力を巡らす。基礎的な魔力による身体強化だった。その状態を維持して、ユーノの身体をひょい、と抱き上げる。
「んん……」
「ふふ、よく寝てる」
相変わらず起きる気配はない。そのままお姫様抱っこでベッドまで運んでいき、ゆっくりと柔らかな布団の上に下ろした。なのははその隣に、少し距離を置いて横になった。
「ユーノくんはね、『なのはごときのバインドを解除するなんて、僕の力をもってすれば造作もないことだよ』とかなんとか言って、わたしが眠ってるベッドの中に潜り込んできたの。わたしじゃなくて、ユーノくんがこっちに来たの、うん。まったく、しょうがないなぁユーノくんは」
そっとあることないこと囁いてみても、静かな寝息のリズムは一定に保たれている。狸寝入りというわけでもなく、本当にぐっすり眠っているようだった。しばらくその寝顔を眺めていると、もぞもぞと動き始めた。意外と寝相は悪いほうなのかもしれない。フェレットの時はそんなことは無かったが、やっぱり元の姿だと違うものなのだろうか。
そうこう考えている内に、二人の距離は確実に縮まっていた。ユーノが半身、寝返りをうった。勢いで半ば投げ出されるようになった腕がなのはの身体へと伸び、その手はほっそりした腰あたりに回された。そのまま、ぐいっ、と引き寄せられる。
「ひゃっ……ゆ、ゆーのくん?」
返事はない。ずいぶん近くなった彼の顔をつんつんとつついてみても、まるで反応しない。本当に、寝相の悪さだけで、こんな――抱き寄せられるような形に、なってしまった。すごい偶然だ、となのはは思った。抱き枕か何かと思われているのかもしれない。そういえば自分も、朝起きたら丸めた掛け布団を抱き締めていた、なんてことがあったりする。それと似たようなものだろう。彼の胸に抱かれている形になって、わかったことがあった。
(おっきいなぁ……)
わずかに身を捩って、彼の寝顔を見上げる。そう、ユーノは大きくなった。出逢ったばかりの頃は背もほとんど変わらなかったのに、今は並んで立ったらこちらから見上げないと、彼の綺麗な翡翠色の瞳を覗けなくなってしまった。男の子ってズルい。
(……でも、フェイトちゃんは女の子なのにユーノくんと同じくらい背あるよね)
自分が小さいだけだというのなら、それはそれで悔しい。今よりもっとたくさん牛乳を飲んだら、少しは追いつけるだろうか。でも、自分が頑張っている間に、彼はもっともっと大きくなっているかもしれない。やっぱりズルい、と思った。
ふいに、なのはの腰に回ったユーノの手に、強い力が込められた。もともと近くにあった身体が、より密着する形になる。残っていたもう片手も、背中に回された。恋人同士がするように、抱き締められている。思っていた以上に力が強くて、ああ、やっぱり男の子なんだな、と今さらのように思った。
「これは、ほんとに抱き枕だと思われてるっぽいなぁ……ユーノくーん、抱き心地はどうですかー」
やっぱり答えはない。あったら困る。あったとして、どんな答えなら満足できるだろうか。考えようとして、でも、すぐに止めた。考えてはいけない気がした。どうして考えちゃいけないんだろう。思考がぐるぐると渦巻く。
「はぁ……ゆーの、くん……」
気付けば、胸の鼓動がいつもより早い。思いの外力強いユーノの腕から逃れられず、なのはは呼吸のために息を吸うたびに、強くユーノのにおいを感じざるをえなかった。風呂に入ったためか、ボディソープの香りが混じったそれは、枕や布団に染み込んでいるものとは少し違っていて、しかし根っこにあるものは同じで、そして比べ物にならないくらい強烈だった。昔から、よく抱きついたり、女の子みたいにサラサラな髪の毛を弄ったり、そうする度に何度となく感じてきた、大好きなユーノのにおい。一度気付いてしまえば、それは紛れもなく男のにおいだった。クラクラした。強烈な睡魔にでも襲われたかのような感覚で、しかし目はむしろ冴え渡っていた。
なのはも、年頃の、思春期の少女である。同年代の少年とは比べるべくもないが、人並みに性欲だってあるし、ふいにどうしようもなく、自分を慰めたくなる夜もある。男の腕に力強く抱き締められ、男のにおいに包まれている、そんな状況に、そんな甘い毒に、女であるなのはは、あてられていた。なのはは、今、自分がユーノに欲情してしまっていることを認めたくなかった。
(やだなぁ……もう、身体くっつきすぎなんだもん……)
ユーノの胸板に自分の胸が押し付けられて、最近ようやく膨らみを増してきた乳房が、ふにゃりと形を崩している。パジャマの下にブラジャーは着けていない。ユーノも、部屋着と兼用であるらしい薄いTシャツ一枚だ。二人の肌を隔てているのは、薄い布きれがたった二枚だけだった。その隔たりを、なのははもどかしく、そしてありがたくも思った。
「んっ」
少し身を捩るだけで、パジャマの生地と素肌が擦れてなんとも言い難い刺激を生み出した。身体が勝手にもう一度、と動いた。今度は、よりはっきりした声が漏れた。二枚の布越しに彼の肌へと擦りつけているのだと思うと、興奮が増した。
「……はぁ……ん、ふ……ゆーの、くん……」
切なげに吐息を漏らしながら、名前を呼ぶ。返事はない。あったら困る。そんなことになってしまったら、自分とユーノの関係は終わりだ。二度と元には戻れない。
「ねぇ、ユーノくん……ぁん……はなして……はなしてくれないと、わたし……やぁ……」
こんな悪戯なんてするんじゃなかったという後悔と、もっとこうしていたいという欲求とがせめぎ合う。均衡はすぐに破られた。
「だめ……だめ、なのに、こんな……はふぅ……ユーノ、くん」
若い身体はもう理性の命令を受け付けなかった。ユーノの首筋に顔を埋める。すぅ、と思いきり空気を吸い込むと、鼻腔が彼のにおいで満たされた。クラクラした。それは麻薬のように甘美で、なのはの心をがっちりと掴んで離さない。これなしではもう生きていけない、とさえ思う。犬のように鼻をひくつかせて無心に彼のにおいを嗅ぎ集め、身体は小刻みに揺らして彼へと擦りつける。
「ん……んっ……は、ぁ……」
永遠なんてない、みんな変わってく、変わらなきゃいけない。昔、そう言ったのは他ならない自分だった。その言葉は確かに間違っていなかった。なのはは、あの頃から自分が変わってしまったことを自覚している。ユーノの言った通り、いつまでも子供ではいられない。そして、変わった末の今の自分が、子供ではなくなってしまった今の自分が、ユーノをそういう目で見るようになってしまった今の自分が、嫌だった。彼への手酷い裏切りであるように思えてならなかった。
本当は、もっと距離を置くべきだったのだろう。しかし同時に、出逢った頃から変わらない、近い場所に在りたかった。変わってしまいたくなかった。それが叶わないことをなのはは知っていたが、それでも甘えてしまった。土台、自分には自立なんて無理だったのではないかと思う。今の自分が嫌で、ユーノや周りに甘えてばかりの自分から脱却することができれば、何か変わるのではないかと思っていた。しかし、そもそもが矛盾しているのだ。変わりたくなかったのに変わってしまって、故にそこからさらに変わろうとする自分。滑稽で仕方がなかった。
「んぅ……」
「……っ!」
ふいに、ユーノが大きく動いた。ついに目を覚ましてしまったのかと、一度ビクリと大きく肩を震わせて、なのはは硬直した。身体全体に回っていた甘美な毒は、一瞬で全て消し飛んだ。
「あ……」
なのはを逃がすまいとするようにユーノの腕に込められていた力が、消えた。締め付けるかのように伝わってくる力を感じられなくなったことで、なのはは喪失感に襲われた。こうなった時と同じように、ユーノは半身、寝返りをうった。抱き寄せるかのようだった最初の動きとは逆に、隙間なく触れ合っていた二人の身体が離れた。そのわずかに開いた間隙に、温い空気が入り込んだ。目に映らず、触れられもしないそれが、分厚い壁であるかのように感じられた。
「わ、わたし……は……」
それは錯覚に過ぎなかった。壁なんて存在しないし、触れようと思えば触れられる。さっきとは違う、寝相の悪さが原因なんて偶然ではなく、自分の意思で、自分から、彼の身体に触れることができる。男を感じて、欲情してしまったその身体を、今度は自分から抱き締めることができる。そうしたら、彼はきっと応えてくれて、さっきよりもずっと強い力で、そう、壊れてしまうぐらいに強く、抱き返してくれるような、そんな気がして。
「……っ」
だから、なのはは逃げ出した。
どうにかなってしまいそうで、早くユーノの傍から離れたいのに、彼を起こさないよう、なのははゆっくりと静かに身を起こし、ゆっくりと静かにベッドから下り、ゆっくりと静かに寝室から出なければならなかった。ひどく長い時間であるように感じられた。音を立てないようにドアを閉じて、なのはは暗いままの部屋の中を、もう一度トイレまで駆け込んだ。
「……最低だ、わたし」
なのはにとって、忘れられず、そして忘れたい一夜になった。
ユーノは目を覚ますと、なぜか自分がベッドの上で寝ていたことに気付いた。加えて、バインドも外れている。とりあえず部屋の時計に目をやると、7時を少し過ぎたところだった。諸々の支度を考えると出勤ギリギリに近いが、今日は休日なので問題はない。
「えーっと……」
記憶を辿ると、確か夜中に一度、なのはが何かしら騒いでいて起こされたような気がする。その時は――何をしたのだったか。寝惚けていたのか、まるで思い出せない。それが不安を煽った。
「……なのは?」
室内をぐるりと見回してみても、なのはの姿はない。とりあえずベッドから下りて、寝室を出る。なのはの姿はすぐに見つかった。ソファの上で横になって、毛布も何もかけずに眠っていた。
「なんでまた、こんな所で……」
室温は整っているので風邪をひくことはないだろうが、ユーノは毛布を取りに寝室へ戻ろうとした。なのはに背中を向けたのとほぼ同時に、声が聴こえた。
「ゆーの……くん……?」
「なのは?」
振り返ると、なのはが身を起こすところだった。寝起きのせいか、身体がふらふらと揺れて、実に頼りない。ユーノはソファまで歩いていって、なのはが起き上がってできたスペース、つまりなのはの横に腰かけた。ほんの少し、温かかった。揺れる身体を軽く支えてやると、ぼんやりとした瞳がユーノに向けられた。
「……ユーノくん。おはよ」
「おはよう、なのは。なんでこんな所で寝てたの。確かベッドで……」
「ユーノくんが……」
「え? 僕?」
「ユーノくんが、『なのはごときのバインドを解除するなんて、僕の力をもってすれば造作もないことだよ』とかなんとか言って、わたしをベッドから追い出したんだよー……うう、ひどい」
「嘘だよね、それ。嘘だと言ってよなのは」
「うん、嘘だよ」
即答されて、ユーノはがっくりと肩を落とせばいいのか、ほっと一息つけばいいのか、わからなくなった。じゃあなんでこんなことになっているのか、それをなのはに訊こうとして、ふと肩に心地よい重さを感じた。なのはが、ユーノの肩にこてんと頭を乗せていた。隣り合う二人の身体は、控えめに触れ合っている。気にはなるが、これ以上は訊かないほうがいい気がして、ユーノは質問を変えることにした。
「よくこっちの部屋で、一人で眠れたね。あんなに怖がってたのに」
「んー……幽霊のほうがマシかな、って」
つまりは、何かとんでもなく恐ろしいものを目撃して、それでなのははこちらに逃げてきたということなのだろうか。そのわりに、なのはの様子には怯えや恐怖のようなものが見受けられないのがよくわからなかった。
「ねぇ、ユーノくん」
「なに、なのは」
「……わたし、やっぱり自立なんて無理なのかも」
いかに強力な魔導師であろうと、なのはは一人の人間であり、年頃の少女である。だから彼女だって弱音を吐くことぐらい、確かに珍しくはあるものの、ある。そこにユーノが居合わせることも、これが初めてではない。しかし今回は少々雰囲気が違うように感じられた。どう言ったものか思案していると、なのはが先を続けた。
「こうやって、ユーノくんに……甘えたり、くっついたり。好きだから」
なのはの柔らかな手が、ユーノの手の甲の上に重なった。
「……知ってるよ、そのぐらい」
「うん、そうだよね。わたし、いつも甘えて、くっついてばかりだもんね」
「そんなことないと思うけど」
「そんなことあるの。本人が言ってるんだから」
「……別に、さ。自立なんて、しなくてもいいんじゃない」
「え?」
なのはが離れた。目はすっかり覚めたようで、ユーノの好きな澄んだ空のような瞳が覗き込んでくる。その瞳に自分の顔が映っていることを、ユーノはなんとなく誇らしく思った。誰に誇っているのかは、ユーノ自身よくわかっていなかった。
「だって僕は……なのはを甘やかすの、好きだし」
「えー、嘘だよ、それ。ユーノくん、わたしにはけっこうイジワルだもん」
「そんなことない」
「あるんだってば。昨日だって」
「あー、とにかく、なのはが甘えてくれなくなったら、僕は寂しいって思う」
恥ずかしいことを言っている自覚はあった。顔を逸らして、頬をぽりぽりと引っ掻く。
「なのはは自立したいんであって、独りになりたいってわけじゃないんでしょ」
「それは……うん。そりゃそうだよ」
「だったらいいじゃないか。今まで通りで」
「……そうなの、かな」
なのはは膝を抱え込んで、そこに顔を埋めた。チラリと横を見ても、表情は窺えない。一見すると泣いているようにも見えて、しかし漏れ聞こえる声に、震えは感じられなかった。
「じゃあ、今までみたいに……べたべたくっついても、ユーノくんは大丈夫なんだ? いつまでも子供じゃいられないんだって、ユーノくんが言ったくせに」
「それは、ほら、まあ。頑張って我慢するよ」
「……ふふっ。なぁに、それ」
顔を上げて、小さく笑った。それがとても、なのはらしい笑い方であるように思えた。
正直なところ、本当に我慢できるのかは怪しいところだった。いたって常識的な美的感覚を持ち合わせているユーノの目から見て、高町なのはという少女はとても可愛らしく、美しい存在だった。器量良し、性格だって悪くない。少女として女性として、なのはは魅力的に過ぎた。
それでもユーノは、なのはとの間に、そういう、男女の関係というものを求めているわけではなかった。あくまでも、雄として魅力的な雌に惹かれるのは生物としての本能であり、ユーノ・スクライアという人格はそれを望んではいないのだと、少なくともユーノ自身はそう思っている。
「……じゃあ、わたしも」
「なのは?」
「わたしも、我慢してみようかな。すっごく大変そうだけど」
そんな想いは、きっとなのはも同じなのではないか。ユーノは、それなりに自信を持ってそう思う。ただし根拠はなかった。
恋人とか、その先の夫婦とか。なのはとのことを、そうなのではないかと問われたり、冷やかされたりしたことは、けっこう多い。そんな関係も、きっと悪くはないのだろう。なのはと一緒なら、悪いはずがない。でも、何か。もっと特別な。恋人や夫婦より特別な何か。そんなものを求めているのかもしれない。ユーノは漠然と、そんなことを思った。本当にそんなものがあるのなら、なのはと一緒に見つけてみたい。
「それなら、今日からしばらく我慢大会、かな」
「ふぇ? ユーノくん、それって……えーっと……?」
なのはが、おっかなびっくりといった様子で聞いてくる。ユーノは、口元に小さく笑みを浮かべて言った。
「やっぱり、そんなにすぐに新しい部屋が見つかるとも思えないしさ。なのはさえ良ければ、しばらくルームシェアしないか、ってこと。昔みたいに」
あれは自分が居候していただけでルームシェアなんてとても言えないような気もしたが、意識としては変わらない。久しぶりになのはと一緒に一夜を明かして、あの日々を懐かしく、羨ましく思ったのだった。
「……いいの?」
「いいよ」
「じゃあ、お世話になっちゃおうかな」
ほんの短いやり取りで、事は決まっていた。ただ、表面上はそうでも心中は違っていて、ユーノは意識して使った「昔みたいに」というフレーズになのはがピクンと反応していたのを見逃していなかった。それが嬉しくて、そして同時に、ただそれだけのことなのだった。
「分担とか決めないとね。自立しなくていいとは言ったけどさ、言葉の捉え方一つだと思うよ。お互いやることやって、どうしようもない時は助け合って、それって十分、自立してるって言えると思う」
「うん……そうかも。そうなのかもね」
「洗濯はどうする? 男物と女物で分けてやろうか」
「でもそれだと非効率だよ? 水道代かさむし洗剤も余計に使わないといけないし。交代でいいんじゃないかな、下着とか気まずいだろうけどそこはお相子ってことで」
「じゃあそれで。ご飯は……」
ぐぅ、と可愛らしい音が聴こえた。なのはの顔を見ると、うっすらと赤くなっていた。
「わ、わたしじゃないよ!」
「うん、そうだね。今の、僕」
「ううっ、ユーノくんのいじわるー!」
「いやいやいや、なんでさ」
そんな他愛ないやり取りが楽しい。一頻り笑ってから、ユーノはソファを離れた。向かうはキッチンである。
「ゆ、ユーノくん?」
「とりあえず今朝の分は昨日のソバのお礼ってことで僕が作るよ。ご飯はお互い仕事もあるし、日によって相談して臨機応変に、ってことでいいかな?」
「あ、うん。それで」
「作ってる間にいったん部屋に戻って着替えておいで。夜も明けたし、一人でも恐くないでしょ?」
「うーん……本局って昼夜の概念薄いから、そういうのあんまり関係ないんだけどなー……でも、頑張ってくる」
「頑張れ、なのは」
冷蔵庫の中を確かめながら、エールを送る。食パンに卵、野菜が何種類か、あとはベーコンが見つかった。トースト、スクランブルエッグ、野菜とベーコンのソテー、確かインスタントのスープがあったはずだから、それをつければ朝食としては十分だろう。いや、ベーコンは野菜と炒めるよりベーコンエッグにしたほうがいいだろうか。ドアが開く音がまだ聞こえないので、なのはの意見を聞こうと声をかけようとして、
「ユーノくん」
少し遠いところから、声がかかった。
「我慢って、どのくらいすればいいのかな」
危ういところで、卵を落としそうになった。残っている卵は2個だけなので、2人分の朝食のために1個たりとも無駄にするわけにはいかなかった。他の必要な材料を取り出しつつ、ユーノは向こうに聞こえるよう、大きめの声で答えた。
「40年とか、50年とか。そのぐらい経ったら、お互いにもう、そんなこと気にならなくなるんじゃないかな」
「うわー、長いね」
「うん、長い。長いけど……」
「40年も50年も経って、それでもずっと仲良しのままでいられたら、素敵だよね」
ユーノが言おうとしていたのとそのまま同じようなことを、なのはが引き継いで言っていた。包丁を取り出しながら、そうだね、と返す。
「そっか……40年、50年……うん。末永くよろしくね、ユーノくん。行ってきまーす」
シャッ、シャッ、とドアが開く音と閉まる音が聞こえた。
「……戻ってきてから聞けばいいか」
転がっていかないよう、折りたたんだ布巾の上に2個の卵を並べて置いて、ユーノは野菜を適当な大きさに切り分け始めた。
あとがき
お互い友情というには相手のことが大好き過ぎて、しかし恋情というにはベクトルが72度ほどズレている。でも年頃なので「なのはの生足……」「ユーノくんのにおい……」みたいに性的な方向で意識してしまって正直困る。そんな関係。
この二人は別にくっつかなくてもいいけど、作中で言ってるようにずっと仲良くしていてくれたら嬉しいなぁ、と。
書き方とか構成とかを意識して変えてみようという試みでもあったけど、あまり上手くいかなかった。